歴史

1898年、北イタリアのストラ地域(パドヴァ近郊)に、初代Giovanni Luigi Voltan(1873-1941)によってVoltan社は設立され、同時に北東イタリアの産業の歴史の象徴となり、現在は4代目が引き継いでいる。そこから、世界有数の靴メーカーの一つにまで発展している。

 

20世紀後半、この地域は他の地域同様に、農業危機にさらされていたヴェネチアの片田舎町だった。当時、好景気に沸いていたアメリカへ移住する事が、失業から逃れる唯一の選択肢と思われていた。Voltan氏も故郷を離れ、しばらく転々としていたが、最終的にボストンに辿り着いた。当時ボストンは、アメリカで最も重要な靴生産地域の一つだった。そこは、分業が進んだ生産サイクル、そして特に様々な生産工程の機械化が進んでいて、当時としては象徴的な地域であった。そこでVoltan氏は、とある大きな靴メーカーに雇われた。彼は、あらゆる靴生産工程で働き、機械化された流れ作業を確実に自分のものとした。それと同時に、この技術をイタリアに持ち帰り起業すれば成功するであろうと信じていた。

 

Voltan氏は確信はなかったが、同僚からもらったいくつかの機械を持って、1898年に北イタリアのストラ地域に戻った。その決断が結果として、イタリアの靴産業界における本当の意味での技術輸入をもたらすこととなる。

 

確かにこの技術輸入は、昔ながらの生産工程にとらわれていた伝統的なイタリアの靴メーカーに、大きな進歩をもたらした。皮となめし皮をミシンで縫い合わせる方法は、瞬く間にイタリア中に広がった。よって、手縫いで製造する工場は、当時でほんの数カ所だけとなった。

 

Voltan氏の直感は当たっていた。実際に彼は、アメリカの機械に加え、ドイツ製のいくつかの部品も取り入れて、生まれ育った村に工場を立ち上げた。1904年にはすでに400~500人(季節労働者含む)もの従業員を雇い、1日に1000足もの靴を製造した。生産工程の機械化によって(一部は手作業であったが)、コストを削減する事ができ、これによって、手ごろな価格の靴を市場に提供することができた。これはアメリカの大量販売マーケティングを熟知したことの証でもあり、戦略的な選択となった。アメリカでの経験を元に、問屋を通さず、競争力のある価格で、彼は独自の小売ネットワークを広げ、その機械大量生産の靴はイタリア人消費者に受け入れられた。第一次世界大戦前に、彼はいくつかの店舗を開き、20世紀後半は35店舗となった。これらの店舗は、北イタリアから中央イタリアのあらゆる街に点在することになった。これは、近代的な販売方法が受け入れられて確立されることが難しいことを覆す、類まれな起業発展の象徴となった。Giovanni Luigi氏の後は、息子のEmanuele氏が会社を受け継ぎ、その後、甥のGiovanni氏と彼の二人の息子であるEmanuele氏とMarco氏が受け継いでいる。

靴メーカーVoltan社の急速なる発展は、他の工場の手本となり、靴生産地域である北東イタリア、パドヴァ近郊の発展の礎となった。もし、このような歩みがなければ、農業から工業への過渡期を迎えていたヴェネト州のいくつかの企業のうちの一つにすぎなかっただろう。

Voltan社は(現在、創業当時を記念して、“Voltan 1898”をトレードマークとしている)世界市場も開拓し、早くも2000万ユーロの売上げを記録している。